南海嬉嬉内島伝
2016年11月から2017年11月まで影絵修行のために滞在したインドネシアで月1回連載していたエッセイです。
はじめに
8th Dec 2016
バナナの木が揺れている。ヤシの葉も揺れている。
熱帯のキラキラした光を浴びて、見渡す限りの緑がフワフワと揺れている。
縁あって2003年以来,13年振りにインドネシア共和国・バリ島に住むことになった。
まさか自分もまたこの土地に戻ってくるとは思ってもみなかった。
20歳の頃、インドネシア・バリ島の伝統芸能を軸に音楽家としてスタートした活動は、何かに誘われるようにいつの間にか影絵が中心になってきた。バリの影絵・ワヤンクリットにはまえから興味はあった。2003年にバリ島に留学した時も、影絵の伴奏楽器【グンデル】を習ったり、バリの古典絵画を習ったりしたが、その中心にある影絵ワヤンクリット自体には触れてこなかった。それは知れば知るほど深くなるこの島の芸能や哲学の重要な部分に影絵が関わっていて、それに触れる勇気がなかったから。(今もない。。。)一方で、影絵を使った創作活動を続けていく上で、そこを無視できなくなってきた。かつ活動が音楽のみならず舞台や美術に広がってきたことによって、一つ一つの作品制作が前よりも長期化し、どこかに滞在してじっくりとモノ作りに向き合いたいとも思っていた。そういった「終わっていない宿題」みたいなものを抱えて日々は過ぎていくものだ。
そう思っていたら突然身に余る賞を頂き、インドネシアにて1年間改めて勉強する機会を得た。それこそ【縁】としか言いようがなく、まさか外国人風情がバリの伝統影絵と向き合えということか?と自問自答したりする。
今回の連載は、前々からお世話になっている山梨県にある昌福寺のご住職からお話しを頂き、月1回のペースで書くことになった。日本で個人的に描いてきた絵日記【ひざくりげ】のフォームをベースに、注釈・補足をつけたものになりそうだ。
日本の寒い冬の一瞬の逃避行のお手伝いが出来れば幸いです。
ジャワ島中部 ソロの宿にて 川村亘平斎
その1 Kayonan
8th Dec 2016
インドネシアで上演される【ワヤン・クリット(影絵人形芝居)】は、中部ジャワとバリ のものがよく知られている。もともとは中部ジャワの王宮都市・ソロ、ジョグジャカルタを中心に上演されていたものがバリ島にも伝わり、独自の発展を遂げている。【ダラン(影絵師)】はインド伝来のマハーバラタやラーマヤナをもとにした物語を演じる。
バリ島のダランは何役もの登場人物を演じ、バリ語やカウィ語(古代ジャワ語)を使い分け、 伴奏楽器の指揮もする。バリ島において、ダランはパフォーマーというだけでなく儀式を行うためになくてはならない存在でもある。ダランの師匠・ナルタさん曰く、ダランは村人達に哲学を伝える「地域の師」の役目を果たしている。近年エンターテイメント性やコメディ色が強い演目が増えてきたが、もともとは哲学、教訓になる話が多く「昔はワヤンを見た後、その日の演目についてみんなで話し合ったものだ」そうだ。
ナルタさんは、代々続くダランの家系に生まれ、自称75歳。高齢のインドネシア人の正確な年齢はわからない。彼が若かった頃は、今のような音響設備などまだなく、ダランは村人に向かって生声で物語を語る。村の寄り合い所いっぱいに集まった群衆は、ダランの一言一句を聞き漏らすまいと静まり返り、ダランのその美声はずいぶん遠くの観客にまで届いたそうだ。
バリ島のワヤンでは椰子油の炎を使う。頭上間近で燃え盛る炎を浴びながら、ダランは今まで蓄積されてきた膨大な物語と、神々と、今は亡き先人達の影を操る。観客をどこか正しい場所へ連れていくために。
カヨナンはワヤンを上演する始めに必ず登場する象徴物。その形は樹のようであり、葉のようであり、宇宙そのものを表現しているとも言われる。
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実はナルタさんに修行の申し出にいく前にもうひとつミッションがあった。バリ島在住の日本人の友人が、ナルタさんのワヤンで伴奏をする同じ村の演奏家・サルゴさんの弟子で、ナルタさんのところに行く前にサルゴさんにも挨拶に行けという。ダランは唄を唄ったり伴奏の指揮をするので、音楽を理解していなければならない。サルゴさんは今度来る日本人=僕がどんだけ演奏できるのか?ナルタさんのところに紹介できるヤツか?品定めしたいようだ。何かと順序があるのがバリ島の良いところ。21世紀のRPG。 古き良き伝統の世界、礼を尽くすに限る。
グンデルと呼ばれるワヤンの伴奏楽器は、青銅の鍵盤10枚でできた打楽器で、通常4人一組で演奏される。ワヤン以外にもバリ島の通過儀礼では欠かせない楽器。
日本で僕にグンデルを教えてくれた皆川先生曰く【バリ島最後のマエストロ】であるサルゴさんは、角刈りアタマ、 白タンクトップ、ベランメェ口調の60代、いわゆる下町のおやっさんだ。何処の馬の骨ともしれない日本人=僕がワヤンを勉強しに来たので、値踏みするようにメンチをきって「おめぇ、スカワティ村のグンデル知ってんのかぁ!グンデルしらねぇヤツは、ダランなんかやれねぇぞぉ!」と言ってグンデルのバチを渡してくる。僕はもう何年もまともにグンデルを叩いてなかったので、ほとんど曲を忘れていた。恐る恐る朧げに覚えている数曲をサルゴさんと演奏。
その人となりとはうって変わって、サルゴさんの演奏は繊細かつダイナミック。キラキラと踊る黄金の光。僕はといえば、恥ずかしながらほとんど何も覚えておらず「これは拙いかもなぁ。。。」と内心ビクビクしていた。僕の心配とは裏腹に、一応グンデルの経験者であるということはわかってもらえたようで、サルゴさんはその場でバイクにまたがってナルタさんの家まで僕のことを伝えに行ってくれた。サルゴさんは昔気質の熱い男なのである。
後日ナルタさんの家に伺うことになった。 ナルタさんの家は、サルゴさんの家から徒歩3分のところにあった。 バイクに乗る距離ではないことは言うまでもない。
その2 スラカルタ
6th Jan 2017
あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。 昨年末は日本の冬から遠く逃れ、インドネシアはジャワ島に行っておりました。
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ジョグジャカルタであった人形劇フェスティバルでの影絵公演を終えて 中部ジャワの古都スラカルタ(通称ソロ)に来た。
ムハンマドの聖誕祭「スカテン」の期間中、ソロで毎晩影絵芝居が上演されるとの情報を 得てしばらく滞在することにした。
もう一つの目当てはソロにあるマンクヌガラン王宮のガムランを聴くこと。10年以上前 に一度聴いて、ものすごい衝撃を受けたあの音をもう一度聴きたくなった。
ジョグジャカルタから電車で東に1時間。 ジョグジャカルタ~ソロの鉄道は1時間に1本程度走っていて安くて便利。雰囲気として は夏の【外房線】。注意点は、日本の鉄道のようなバリアフリーを考えていないので、ホー ムと電車の段差が50cm以上ある。重い荷物を持っている時は大変。あと「次は00駅~」 みたいなアナウンスもないので、注意深く廻りを見渡したり、向かいに座ったおばちゃん (もしくはおじちゃん)に「ここどこ?」と聞かないと乗り過ごしそうでドキドキする。 ちなみにインドネシアには、ジャワとスマトラにのみ鉄道が走っている。
もともとソロ王宮とジョグジャカルタ王宮は血縁。現在ジョグジャカルタ王宮は州知事を 兼任しているが、ソロの王宮は王族という称号だけを持っている。ソロにはカスナナンと マンクヌガランの2つの王宮があり、マンクヌガラン王宮は入館料(+ガイドにチップ) で一部が公開されている。王宮に入ってすぐの大広間ではイスラムでもヒンドゥーでもな い、ジャワに古来から伝わる儀礼が今でも続けられている。大広間の天井には太陽のよう な紋章が掲げられている。現在まで9代続くマンクヌガラン王朝の初代がその紋章で表さ れている。2代目以降は肖像画があるのに対して、初代は肖像を描いてはいけないそうだ。
マンクヌガランはジャワガムランのレコーディングが行われた場所としても有名。プンド ポの広い天井と大理石の床が作り出す天然のリバーブは、まさに王宮のガムランにふさわ しい響きである。毎週水曜と土曜の朝に王宮の楽団が練習していて、誰でも見ることがで きる。ガムランに合わせて舞う踊り子たちの身体は大理石に映り込み、まるで水面に浮か んでいるようだ。
ガムランの楽師や舞踊家の衣装にも使われるバティック(ろうけつ染め)は、中部ジャワ の特産品でソロスタイルとジョグジャカルタスタイルがある。ソロのデザインが細かく茶 色がかっているのに対して、ジョグジャカルタのデザインは大ぶりで白い部分が多い。ス トライプの角度もソロとジョグジャで左右対称になっている。伝統的バティックのモチー フにはそれぞれ意味があり、結婚式用、出産用、お葬式用など全て違ったデザインが用意 されている。中部ジャワでは1950年以降まで、王族以外はバティックを着ることが許さ れなかったそうだ。今でも一般人が王宮に入る際、着てはいけないバティックがある。
ジャワ島はムスリムが多いので「肉」と言えば主に牛肉。ジャワに行くと美味しい牛肉料 理の店がたくさんある。ソロでの僕のオススメはマンクヌガラン近くの路地裏で見つけた お店。1930年代からやっているワルン(屋台のようなお店)で牛スープのお茶漬けを出 す。ご飯とトロトロに煮込まれた牛肉とネギの入ったお椀に温かい牛出汁のスープが注が れ、そこにたっぷりライムを絞っていただく。カウンターのガラスケースには厚揚げやテ ンペ(インドネシアでポピュラーな大豆の発酵食品)などのサイドメニューがたくさん並 んでいて、好きなものを取って食べられる。牛のアキレス腱や内蔵などの煮物も注文でき てこちらも絶品。ソロ滞在の後半は毎日通う。
その3 バビグリン
7th Feb 2017
バリ島には美味しい料理がたくさんある。中でもこれだけは外せない!のはやはりバビグリン=豚の丸焼き料理だ。漫画とかでよく見る、豚の口からお尻まで棒が通してあって、それをくるくる回して全身を丸焼きにする、例のアレである。熟練のバビグリン職人が作るバビグリンは、表面の皮がパリッと香ばしく焼きあがり、香辛料がたっぷり練り込まれた肉はふわふわでジューシー。儀式でいただく度に、このクオリティーの豚料理は日本ではなかなか食べられないなぁ、と感心してしまう。
今ではバリのどこでも食べられるバビグリン。もともとお祭りやハレの日に供物として振る舞われたもの。お祭りの朝になると村に一人は必ずいるバビグリンを焼くのがとても上手いおじさんがやってきて、家の庭で作ったりする。最近は近所で評判のお店に行って注文したりもする。昔は儀式の日まで各家庭で子豚を飼って、供物として捧げることが多かったそうだ。
2017年2月4日は、バリ暦でトゥンパック・ランドゥップ(TUMPAK LADEP)といわれる金属を祀る日。元々は武器にたいして儀礼を行う日だったそうだが、最近では武器→金属道具全般になり、ガムランをはじめとする青銅器や車、バイク、パソコンなんかにもお供えをする。街に出るとヤシの葉で作ったお供え物をつけた車がたくさん走っている。日本人の僕から見るとお正月のお飾りをつけて走る車のようにも見える。お供え物のデザインはいろいろあって、トレンドや「イケてる、イケてない」があるようだ。伝統的なものを遊び心を持ちながら継承していける環境は素晴らしいことである。経済成長著しいインドネシアでは、だんだんとそのお供え物が派手になってきている。
影絵の伴奏楽器「グンデル」の師匠・サルゴさんの家では、2年前に新調した楽器の初めての儀式をこのトゥンパック・ランドゥップにやるという。儀式の数日前、サルゴさんはニコニコしながら「儀式のために、とびきりのバビグリンを注文した!オメェ、車持ってるだろ?取りに行くの手伝ってくれや!」と僕に告げる。美味しいものにありつけるなら喜んで!ということで儀式の朝、サルゴさんの家に集合。30分ほど東へ行った街・ギャニアールにあるバビグリン屋へと車を走らせた。
バリ島の2月は雨期だが、前日まで降り続いた雨が嘘のように晴れた。
田園の先にはバリ島の信仰の象徴「アグン山」がその顔を見せている。
バビグリン屋に到着すると、朝も早い時間なのに屋外にある焼き場で2頭の子豚とたくさんの焼き鳥が焼かれている。かわいそうよりも美味しそうが先に立つ、現金な人間である。ジュージューと油滴る注文の品を受け取ると早速家へと引き返す。車の中に豚の香ばしい匂いが充満して、猛烈にお腹が空いてくる。
サルゴさんの家に戻ると、お弟子さんたちがたくさん集まっている。大量の供物と共にバビグリンも供えられお坊さんを待つ。儀式が終わるまではご飯を食べられないので、みんなソワソワして気もそぞろである。お坊さんのチリン、チリンという鈴の音が延々と続く。一時間ほど経って、バビグリンがおもむろにまな板へ運ばれる。近所のおっさんが出刃包丁で頭と胴体をバサっと切ると、そのままパリパリと皮を剥がして、あっという間に肉を切り分ける。家に集まった40人ほどの人たちは、各人お皿を渡されてビュッフェ形式で肉とご飯を取る。朝から何時間もかけて用意されたご馳走は、ものの15分ほどで食べ尽くされる。バビグリンおそるべし。
食後に待っているのは椰子酒・トゥアック(TUAK)。ヤシの幹に傷をつけて出てくる樹液をポリタンクに集め、一昼夜置くと出来上がるお酒。ヤクルトと鰹節を合わせたような味で日本人には好き嫌いが分かれるところ。僕もあまりたくさんは飲めない。男たちは車座になってトゥアックの入ったポリタンクを囲み、一つのグラスで回し飲みする。アルコール度数はさほど高くなさそうだが、一気飲み+お腹の中で発酵が進むらしく、気がつくとかなり酔っぱらっている。この日振る舞われたトゥアックは、お弟子さんがくれた純正トゥアックで混ぜ物一切なし!(市場で売っているものは水で薄められているらしい)ヤシの甘みが心地良くて、今まで飲んだトゥアックの中で一番美味しかった。
ちなみに今までで一番のバビグリン体験は、バリ原住民が住む島東部の村・トゥガナンに行った時のこと。そこで年に1度、3トンの豚を供物に捧げる大きな儀式があり、人間の倍以上の大きさの豚が次々と解体され、運動場いっぱいに並べられた鍋で料理されていた。もちろんその日も豚以上に大量のトゥアックが用意されていた。
その4 カリマンタン
4th Mar 2017
世界第3位の面積を誇る島、カリマンタン島に行く。
今回のミッションは、【FNPF(Friends of the National Parks Foundation)】に参加している日本の友人を頼って、中部カリマンタンのタンジュン・プティン国定公園に行き、野生のオランウータンに会うこと。さらに、その近くの村で影絵公演をやることである。
中部カリマンタンには、ジャカルタから飛行機で向かう。首都から1時間半でこんなに田舎?ってくらい小さな空港。僕の持っている携帯電話は圏外。電波のある暮らしに慣れまくっているので、少々不安になる。
2日目の早朝からジャングルへ向かう。ピックアップトラックの荷台に乗ってグワングワン揺らされながら、森の奥へ奥へと入って行くと、見渡す限りパームヤシのプランテーションになる。碁盤の目状にパームヤシが植えられていて、どの角を曲がっても全く同じ風景。 プランテーションを抜けると、原生林の入り口のひらけた場所に入る。FNPFでは、2015年にあった 原生林の山火事跡に植樹をするプロジェクトをやっていて、ここにはその前線基地が置かれている。この日はそこで一泊することになった。水は雨水を溜めたものしかないので贅沢には使えない。茶色く濁った貯水を煮沸して、飲み水にも使う。自由に水が使える生活のありがたさを、たった1日で考える。電気はガソリンで動く発電機を借りてくるか、日中太陽電池で貯めたランタンくらい。夜7時には真っ暗。小屋から原生林を眺めていると、騒がしい鳥と虫の 音が聞こえてきて、吸い込まれそうになる。ふと「あぁ、このまま森に飲み込まれていったらとても幸せかもしれない」と思う。この島において人間は、圧倒的な森のほんの微細な一部でしかない。
3日目は、ジャングルのさらに奥へと入っていく。中部カリマンタンのジャングルには無数の川が流れていて、現地の人々にとって最も早い交通手段は舟である。僕はてっきり観光用の船(デ○ズニーランドのジャングルクルーズみたいなやつ)に乗るのかと思っていたら、用意されていたのは現地の釣り人が乗る6人乗りの小さなエンジンボート。前日「この川はワニで有名」と聞かされていたので不安になる。
上流にいくと、白濁した川の色が次第に黒く変わってくる。 ジャングルの落ち葉から滲み出たエキスで、黒く染まった川。底が見えないので深さを聞いてみると、なんと10m。船を止め、しばらくして波紋がやむと黒い川は鏡のようになって、水面下にもジャングルが広がっている。上を見ても下を見てもジャングル。
「2つの自然」。現地の人々が、5年に1度行う土着の儀式を説明するときに使った言葉。目に見える自然と目には見えない自然、その両方に感謝するため、彼らは全ての川に船の模型を浮かべて祀るそうだ。
そのあと野生のオランウータンや、天狗ザルの群れを見て、影絵公演をする川沿いの村へ行く。夕方から村の寄り合い所でセッティングの予定で現場に行ってみると、村の人に「停電するかもしれないから、影絵できないかも・・・・。」と言われる。一応電気は来ているようだが、コンセントがどこにもみあたらない。これはしまった、僕の機材全部電源必要だし、どうしよう。貧弱都会人、秘境に右往左往。 あたふたしていると、村のおっちゃんがどこからか電源ケーブルを持って来て、その場で配線工事開始。工事してる間に村人たちも集まってきちゃったので、広場にあるバレーボールのネットにスクリーンを張って無理やり公演スタート。5分に一回落ちる電源にヒヤヒヤしながら公演を決行。今までいろんな場所でパフォーマンスしてきたが、ここまでの秘境は初めて。インドネシアに修行に来てるなぁ、と実感した夜だった。
その5 ニュピとジャカルタ
3th Apr 2017
2017年(サカ暦(caka)1939年)3/28はニュピという、バリの特別な日。
静寂の日ともいわれるこの日は、スピ(sepi)=空いている、というのが語源らしく、とにかく何もしないで家にいることが薦められ、基本的に外出禁止。火や電気を使ってはいけない。村や地域によって、ルールの厳しさに多少の差があるようだが、概ねこのようにいわれている。昔は36時間(ニュピ前日の夜18時~ニュピの次の日の朝6時まで)火を使ってはいけなかったそうだ。
僕はニュピにバリにいるのが初めて。
前回インドネシアに長期滞在していた2004年、ニュピの日に僕はバリにおらず、その日は東ジャワにあるヒンドゥー教の聖地・ブロモ山(gunung Bromo)にいっていた。すると帰りにひどい高熱が出る。バリに戻って数日うなされていると、いつの間にか身体中に発疹が。。。当時まだ日本ではあまり知られていなかったデング熱も、高熱と発疹がでるらしいので、心配になって病院に行くと、発疹チフスにかかっていた。日本でチフスって言ったら、まぁまぁ大変な感じに受け取られるが、バリの人たちにとってはたいした病気ではないらしく
「チフスだったら、おかゆでも食べてれば治りますので。。。」
なんて言われて、抗生物質渡されて帰された。
今ではいい思い出だが、その時は死ぬかと思った。
もしかして、外出禁止の日なのに、外(しかも島の外)に行ったからバチが当たった?みたいなことを考えて、もし次自分がインドネシアにいる時にニュピにあたったら、必ずバリにいよう、と思っていた。
ニュピの1週間ほど前に、村の自警団が家に来て「ニュピの心得」なるものを置いていく。
○火(電気も含む)は、怒りの心を表すため、使用を禁じます。
○精神を綺麗にするため、仕事や物理的活動を禁じます。
○外出を禁じ、自分の内面と向き合いましょう。
○エンターテインメントやレクリエーションなどはせず、高い精神を養うことを目指して過ごしましょう。
むむむ。怠惰な日本人にはものすごく厳しいきまり。。。とはいえ、これだけ厳しいことを書いてあっても、みんながみんなこれを守っているわけでもないようで、外出はしないにしても、夜の食事時はちょっとライトをつけていたり(実際ご近所に何件かあった)、家の中でカードゲームやったりしている。
ニュピの朝、起きぬけにまず感じるのは、その音。鳥や犬の鳴き声以外、まったく何も聞こえない。人の生活を感じる音~料理や庭履きの音、バイクや車の排気音、人が行き交う気配の一切合切がない。
いつもの町並み。音だけが全く失われた世界。
我が家はというと、上記に出ていた決まりの「外出」以外を全てぶっちぎって、この日のために日本から取り寄せていた海外ドラマのDVDを、朝から晩まで見てやるぞ!と思っていた。しかし、周りの家が想像以上に静かだったので、びびって無音、字幕でこそこそ見ることにした。
このニュピという日、1日体験して思うのは、日本でもこういう日があったらいいのにな、ということ。日頃生活している場所で、普段しているような生活音や、人が歩いている気配のない道を見るのは、特別な感慨がある。実際、火も電気もつかわないので(携帯やっている人はかなりいたと思うけど)、周りにウンウンと動くエネルギーが全くない。まさに静寂を味わえるのは貴重である。さらに夜、街灯も、家々の明かりも全くついていないと、あんなにも星が綺麗だとは!そんな体験が、例えば東京のど真ん中で味わえたとしたら、それはそれは素晴らしいだろうと思った。
そんな感慨にふけっている暇もなく、ニュピ明けの朝、僕はインドネシアの首都ジャカルタにいた。インドネシアの大手新聞社「KOMPAS」が運営するギャラリーで影絵と音楽のパフォーマンスをするためである。昨年末に参加したジョグジャカルタの人形劇フェスティバルを見に来ていたkompasのプロデューサーが、僕のパフォーマンスを気に入ってくれて、呼ばれることになった。心を空っぽに!というニュピのありがたい教えが吹っ飛ぶほどの大都会・ジャカルタ。経済成長著しいイケイケのインドネシアの首都である。大渋滞と排ガスで汚れた空気、しかしそれをものともしない人々の陽気なエネルギーを感じる。会場のkompasも、昨年新しく高層ビルを建てたらしく、久しぶりの大都会に興奮する。
プロデューサーから、ワークショップとパフォーマンスを依頼されていた。ワークショップは平日の午後にもかかわらず、かなりの人が集まる。体験コーナーをたくさんやろうかな、と思って、いろいろネタを考えてきたのに、影絵体験もそこそこに質問責めにあう。さすが、影絵の伝統を持つ人たち、飛んでくる質問のレベルがかなり高くて、答えるのが難しかった。日本人にとって目新しい影絵も、彼らにとっては日常の一部である。
夜のパフォーマンスも大入り。在ジャカルタの友人や、日本の方達も来てくれた。公演は1時間程度で全編インドネシア語で行った。影絵と音楽をやりながら外国語でコメディーをやるのはとても難しいが、インドネシアのお客さんたちはみんな暖かくて、大いに盛り上がる。彼らは、何かを見に来る、というよりも、何かを楽しみにくる、というのが染み付いてる。根っからのお祭り民族なんだろうな。
当日いきなり聞いたのが、インドネシアのテレビ局が取材に来ていて、僕のドキュメンタリーの放送がすでに決定していたこと。しかも1時間半枠。とてもありがたいことだが、なんの事前相談もなく物事が進んで行っちゃうっていうのが、インドネシアンスタイルである。
その6 枝葉の物語
3rd Mei 2017
ダラン(影絵師)の師匠・ナルタさんに習い始めて半年が過ぎようとしている。1時間のレッスンを週2日。一見少ないようでいて、その情報量は膨大である。物語の筋を理解し、未知の言語【バリ語】と【カウィ語(古代ジャワ語)】の解読と暗記、数々の唄と声色、人形の操作etcなどの習得。半年の間、たった一つの物語を題材にレッスンを重ねてきたが、今までやってきたことを理解するのに何年かかるのだろう?と途方に暮れてしまう。
レッスンだけではサンプルが少ないので、できるだけ多くのワヤン上演も見に行っている。しかし、肝心の師匠・ナルタさんの上演は、高齢のため現在ではほとんど見ることができない。 この滞在中のどこかで1度でいいから見たい、と思っていたら、儀礼のために上演される昼間のワヤン【ワヤン・ルマ】の奉納があると教えてもらった。
日本では、ワヤン=影絵と訳されてしまうが、バリ人たちは単純にワヤン=影絵とは考えていないようで、「ワヤン・ルマ」は昼間上演され、スクリーンもなければ影絵も登場しない人形劇である。
「ワヤン・ルマ」はバリ島の儀礼には欠かせない。バリ島には、神様の儀礼、死者の儀礼、お坊さんの儀礼、人間の儀礼、魔物の儀礼という 5つの種類の儀礼がある。「ワヤン・ルマ」の演目は、儀礼の種類によって変わり、それぞれの物語は儀礼の内容とリンクしている。例えば、先日ナルタさんが、魔物の儀礼のために奉納上演した演目が以下である。
【デティオ・バコ】
エカチャクラ国に、人を生贄として食べる魔物・デティオ・バコがいた。エカチャクラ国の高僧は、その年の生贄を決めなければならず、途方に暮れていた。そこへ旅の途中に通りかかったパンダワ5王子とその母・クンティ妃(「マハーバラタ」の主人公一家)は、デティオ・バコの退治を引き受ける。パン ダワの次男・ビマは、生贄の中に紛れてデティオ・バコの住む川のほとりへ行く。川のほとりについたビマは、デティオ・バコが現れる前に、用意されていた生贄を食べてしまう。怒ったデティオ・バコはビマに襲いかかるが、逆に退治され、エカチャクラ国に平安が戻った。
ワヤンが上演されている横では、生贄の供物が捧げられたり、お坊さんがお経を読んでいたり、爆音でガムランが演奏されたりしている。周りの音にかき消されて、ワヤンの上演は音も聞こえず、ほぼ誰も見ていない。長い問答のシーンでは、伴奏楽器のメンバーもそっぽを向いている。誰も見ていないところで、ナルタさんが一人でワヤンを奉納上演している。観客もいない場所でただ一人、神様に向けてワヤンを上演するというのはどういう気持ちなのだろうか。
この上演の数日後、ナルタさんの後輩であるダラン・ジュアンダさんの夜のワヤン【ワヤン・ マラム】見に行く。
【ワヤン・ マラム】は前述の「ワヤン・ルマ」と違い、スクリーンと椰子油の炎を使って上演する、いわゆる「影絵」である。お祭りの余興として上演され、観客もいる。観客の笑いを誘う部分も含まれて、見ている人たち皆楽しそうにしていたが、僕はといえば勉強中のバリ語とカウィ語がほとんど理解できず、内容もいまいち理解できなかった。
後日、ナルタさんに、ジュアンダさんがやっていた演目が何かを聞くと「あれは影絵師による創作だよ」と教えてくれた。
ダランは、儀式などで用いられる主要な物語を最低10個̃20個ほど知っていて、いつでも上演できるのだが、いつも同じ演目ばかりやっているとお客さんが飽きて帰ってしまうから、外伝をたくさん作るそうだ。ナルタさんはその昔150余りの外伝を作り、同じ場所で同じ物語を二度と上演しないそうだ。
ナルタさんはこの創作ワヤンを 【チュリトラ・チャランガン(枝葉の物語)】 とも言っていた。 ダランが蓄積してきた膨大な知識とエネルギーは根となり、立ち上がる巨大な樹からは瑞々しく光る枝葉が無限に広がっていく。そんなイメージが湧いてくる言葉だった。
その7 ジャワ 布と鉄道の旅
3rd Jun 2017
何年も前から、母が中部ジャワに残る世界最大級の仏教遺跡「ボロブドゥール寺院」に行きたいと言っていたので、家族旅行も兼ねて僕と妻と娘(8ヶ月)と母の四人でジョグジャカルタに行く。出不精の父は日本でお留守番。壮大な仏教遺跡で日の出を拝み、超高級ホテル「アマンジワ」のランチを食べたりして数日過ごした後、妻と娘と母はバリ島に戻り、僕は一人ジャワ島バティック産地をめぐる鉄道の旅に出た。
インドネシアの名産品バティックのほとんどはジャワ島で作られている。日本では「ろうけつ染め」と言われているバティックは、主に腰巻に使われる布にロウで図柄を描き、そのあと染料に浸して色をつける。ロウをつけたところには色が入らないで白く残って模様になる。絵付けの方法は手描きか、銅版スタンプの2種類。手描きバティックは伝統的に女性の仕事であり、今でも工場やお店の軒下で女性たちが絵付けをしている風景が見られる。手描きバティックの最高級品は、絵付けに半年~1年かかるものもあり、そういったバティックは何百万円にもなるという。
昨年末にバティックの中心地である中部ジャワの「ジョグジャカルタ」と「ソロ」の2都市には行ったので、今回は「辺境のバティック」を探しに行くことにした。バティックの産地は、東西に広がるジャワ島の北岸に集中している。もともと、大陸との貿易が盛んだった港街に、バティックを買い求める商人が多く集まったことが始まりだと思われる。ジャワ島には、この北岸の港街をつなぐ鉄道が走っていて、今回はその鉄道に乗ってバティック産地を巡った。僕は決して「鉄ちゃん」ではない、と自分では思っているが、鉄道が張り巡らされた日本から、ほぼ鉄道のないインドネシアに来ると、なぜだか無性に列車に乗りたくなった。
車窓からは、延々と続く田園と椰子の森、広大な緑。
ジョグジャカルタから北西に4時間。西ジャワの街「チルボン」がこの旅最初の目的地。ジャワ島は大きく分けて西ジャワ、中部ジャワ、東ジャワの3つの文化圏がある。チルボンには王宮があり、現在でも王族が住んでいる。
「バティック・コンパニ(植民地時代のバティック)」といわれるこの街発祥のバティックは、主にオランダ占領時代に確立されたデザイン。兵隊や、船、働く人たちをモチーフにした図柄が多い。上品で細密的な中部ジャワの王宮バティックに比べて、素朴でどこか間の抜けた感じがとてもいい。
チルボンのバティック街には、100件以上のバティック屋が立ち並び、お店ごとに大量のバティックが山積みされて売られている。お気に入りの一品を探すには相当の覚悟がいる。まして、「バティック・コンパニ」は少し時代遅れのデザインなので、置いている店も少ない。置いてあったとしても、年代物の高価なものが多くて手が出せない。炎天下の中、2日間探し続けて、気に入ったバティックを数枚見つけた。
チルボンから東へ2時間、第二の街は中部ジャワ北岸に位置する「ペカロンガン」。ここでは女性に人気の花柄バティックが量産されている。小さいが趣のある街並みが美しい。
ペカロンガンのバティックミュージアムでは、ガイドさんがとてもよく解説してくれたので、この街のバティックの歴史とメンタリティを知ることができた。ペカロンガンのバティック職人は古くから中国、ヨーロッパ、インド、日本の影響を受け、高い技術と海外のデザインが融合した新しいバティックを作り続けてきた。一つ例を挙げると、「バティック・ドンゲン」と言われる、ヨーロッパの民話(シンデレラや白雪姫など)をモチーフにしたバティックがある。その昔ジャワ人と結婚してペカロンガンに移住したヨーロッパの女性が、生計を立てるために、祖国のモチーフを使ってバティック作り始めたことがきっかけになっている。新しいものを取り入れることに、抵抗のない気風を感じる。ジョグジャカルタやソロのように、描かれた模様に哲学的意味を求めるというよりも、美的センスや、良い意味で「売れるバティック」を作ることが、この街では大切とされている。
この旅の最終目的地「マドゥラ島」には、ペカロンガンから鉄道で東に5時間、東ジャワの中心地でインドネシア第二の都市・スラバヤから船か橋を渡っていく。日本と比べてのんびりしているインドネシアの鉄道。ペカロンガン出発が2時間も遅れ、駅で待ちぼうけの時間を合わせると7時間かかってスラバヤに到着。この日は街のホテルで1泊して、次の日の早朝マドゥラ島に出発。一見すると瀬戸大橋のようなスラマドゥ大橋を横目にフェリーで島へ渡る。バティックの中心地・パムカサンまではさらに車で4時間。幹線道路は一つしかなく、時々起こる渋滞にうんざりしながらパムカサンに着く。
ネットなどで調べてもパムカサンの情報がほぼなかったので、街のバティック市場に行ってみる。田舎町なので見た目は閑散としていたが、置いてあるバティックの量がこれまた大量で、一通り眺めるだけでも1時間以上かかった。マドゥラバテックは、荒々しく抽象的なデザインで有名。手頃な値段のものが多かったが、これはいい!と思ったバティックは、やはり年代物の超高級バティックでびっくりするような値段だった。
近年、バティック柄を模したプリント生地が多くなり、手描きバティック職人が減ってきていると聞く。一見普通の布に見えても、広げてみると、ブワッと凄まじいエネルギーを放つのが手描きバティックの魅力である。そんな歴史と人間をまるごと染め込んだような布たちが、年々少なくなってきているのを残念に思う。
布との出会いは、まさに一期一会である。
バティックをめぐる1週間の鉄道旅を終え、バリに戻ると嬉しい再会があった。
僕は2011年、あの大混乱の年に、当時ガムランを教えていた地元の小学生たちと、夢の島の大きなフィールドで飴屋法水さんの「じ め ん」に参加した。その当時、参加していた子供から「大きくなったら一人でバリに遊びに行きたいんだけど、いくらあったらいけるかな?」と聞かれた。なかなか面白い子だな、と思っていたら、先日その子が本当にバリに遊びに来た。しかも初海外。あれから6年、大人にとってはあっという間である。僕の娘は年の近い~と言っても18歳離れている~友達ができたと思って大喜び。僕は「イケイケ」という言葉が通じず、「たぶんそれは『パリピ』っていうんだと思います」と言われて少々凹んだ。
そういえば、僕が初めてバリに来たのも、19歳の時だった。
その8 I ❤️BALI を着る男
1st July 2017
影絵の伴奏楽器「グンデル」の師匠・サルゴさん(自称65歳)には、弟(自称62歳)がいる。練習していると、自慢の白いベスパに乗ってやって来て練習を眺め、たまにちょっかいを出して帰っていく。そんな師匠の弟の本職はお坊さん。サルゴさんの家では「パマンク(お坊さん)」と呼ばれている。バリ島では家単位、村単位、島単位のありとあらゆるお祭りがほぼ休みなく行われていて、彼も儀式の時は上下白の装束で登場し、粛々とお経を唱える。「ひざくりげ」バビグリンの回で、師匠の楽器の儀式を行ったのも彼である。
ヒョロヒョロと痩せたサルゴさんに比べ、パマンクさんは恰幅が良く、長髪を後ろに束ねている。若い頃は、お祭りの余興で開かれる舞踊劇で「ビマ」や「ガトカチャ」と呼ばれる、バリで人気の荒型の踊りをよく踊っていたそうだ。60歳を超えた現在も現役で、観光でも知られる獅子舞「バロン」や魔女「ランダ」の踊りも踊るそうだ。特に儀礼で踊られるランダの踊りは、みんな踊るのを恐がって踊れる人が少ないので、お坊さんでもある彼が良く指名される。
先日も、サルゴさんの家で練習していると、パマンクさんは「I ❤️BALI」とデカデカと胸に書かれたタンクトップと、それとお揃いの青いジャージを履いてやって来た。冗談かと思う格好をしていたので、思わず写真を撮ってしまった。その時は、日本から来た整体師の友達が、練習後のサルゴさんに施術をすることになっていて、パマンクさんはそれを見物に来たのだった。(あわよくば、自分もマッサージしてもらおうとしていて、その願いは後ほど叶うことになる。)
サルゴさんの施術を傍で見ている間、パマンクさんはいつものように冗談話をしていたが、「日本はお金持ちの国だと思うんだけど、バリは貧しかったよ」という前置きをして、いつの間にか彼の子供の頃の話をはじめた。
「土でできた床は暖かかった」
今から50年以上前のバリの話。昔のバリの家は、地面から50cmほど土をもり、それを平らに均しものに屋根をつけただけのものだったらしい。今ではバリのどの家でも、その床はセラミックなどで作られていている。昔に比べて清潔に見えるし、雨の時に泥だらけにならなくて済むが、あまり長い時間座っていると体がかなり冷えてくる。それに比べて土の床は、土そのものの暖かさが伝わって暖かく、気持ちが良かったそうだ。
「最近の人は、サンダル履いちゃうから、足の裏がツルツルで良く滑る」
その頃の人たちは、裸足で生活していた。だから、足の裏の皮がとても厚く、ガサガサしていたようだ。足の裏の話をされて、東バリにあるバリ先住民の村「トゥガナン」に行った時のことを思い出した。トゥガナンは、観光地としても開かれていて、古いバリの住居や、道がそのまま残されている。山の中腹にある村は、大きさが不揃いな石畳の坂道で構成されている。僕がトゥガナンに行った日は雨が降っていたので、石畳をサンダルで歩くとつるつる滑って大変だった。これは昔の人も大変だったろうな、とその時思ったのだが、もしこれが裸足だったらそんなに滑らないんではないか、とパマンクさんの話を聞いて思いなおした。
「昔のご飯は、味気なかったけど、みんな健康だったよ。最近使われてる調味料は、口で美味しいって感じるけど、お腹が美味しがっているかわからないよね。だって、わしらはそれを食べてたくさん病気してる。」
サルゴさんとパマンクさんは一緒に小学校に行っていた。その頃、朝食はなかった。小学校が終わって昼過ぎに帰って来ても、まだご飯ができないこともあった。ご飯といっても、今のような白米ではなく、米と芋、もしくはトウモロコシを混ぜ合わせて炊いたもので、お米の分量はほんの少しだった。7ヶ月に1度訪れる島を挙げてのお祭り「ガルンガン」の時にだけ、白米のご飯を食べた。もちろん、肉(豚肉)も、そのお祭りの時にだけ食べられるご馳走だった。普段は、唐辛子とニンニク、塩を少々の油で炒めたものをおかずにしてご飯を食べた。基本的には夕ご飯はなく、昼作ったものが余っていたら、夜その残りを食べる程度だった。
「別に昔が良かったとは言わないよ。だって今の方が断然豊かだもの」
誰もお金を必要としていなかった。小学校の教科書や筆記用具は、学校が支給してくれたそうだ。現在、パマンクさんには、8歳になる孫がいる。小学校に入学する時に、教科書、筆記用具を買うのはもちろん、建物新設のための補助金を払わなくてはいけない。さらに中学校になると、通学のためのバイクや、今や全世界で必需品になろうとしているスマホを買ってあげたりと、何かにつけてお金がかかってしまうそうだ。「おじいちゃんの子供の時は、バイクなんて村に2、3台しかなかったんだぞぉ~」と自分の子供時代の話を孫に向かってすると、「おじいちゃんの時代と一緒にしないでよ~」と言われてしまう。日本でもよく聞く話である。
バリ島が世界中から地上の楽園といわれて久しい。僕を含めた多くの外国人が、観光で訪れるようになった。現代社会の枠組みの中に入れられたバリの人々は、多くの変化を要求されている。それは昔の日本の姿と重なる部分もある。数万円で世界中を旅できる今、楽園たるべきその本来の姿をそのままに保持していくのは難しいだろう。
それではどのようにして生きていこうか?「別に昔が良かったとは言わないよ。」というパマンクさんの言葉に考えさせられる。
50年前、サルゴさんとパマンクさんは、小学校の帰り道に道端に生えているバナナや、人の家のパパイヤとかマンゴーとか、目に入った果物を勝手に取って食べていた。たぶんこの二人だけじゃなくて、当時の島の子供たちは、お腹を空かした昼下がりに皆そうしていたのだろう。そういう豊かさをバリ島はもっていた。
「昔は人の家のパパイヤを勝手に取っても、誰も怒ったりしなかったよ。みんながそれでいいと思っていた。お腹は空いていたけど、みんな健康だったし、それで幸せだった。」
笑いながら話すパマンクさんのタンプトップには、冗談みたいなI ❤️BALIが光っている。
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先人たちは、いかに幸せになるか、逃れようもない問題にどう対処するか、その最善を考え、選択して生きて来たはずだ。僕たちは、先人たちが進んで来た道の果て、彼らが苦しみながらも選んだ「未来」を生きている。しかし、その「未来」に住む僕たちは、過去を多分に美化してしまう。パマンクさんの言うように「昔の方が良かったとは簡単に言ってはいけない」だろう。
過去の素晴らしさを聞き、今のありのままを受け止めて、よりよく生きる道はなんであろうか?
その9 言葉と呪文
5th Aug 2017
ワヤン(影絵人形芝居)の師匠・ナルタさんに「ダラン(影絵人形遣い)のパフォーマンスで一番大切なのはなんですかね?」と聞くと、迷わず師は「声だね」という。ゆらめく椰子油の炎を前にして、朗々と謳われるダランの声こそが、バリ島のワヤンにとって最重要事項のようだ。その声によって語られる言葉たちは、バリ島の精霊たちと観客を繋ぐ架け橋として信じられている。バリ島の人々はダランの言葉から古きを学び、今いる自分たちの生きかたを再確認する。そのダランがワヤンの中で使う言葉は「バリ語」と「カウィ語」の二種類である。
インドネシア滞在開始から9ヶ月。ここまでの滞在のほとんどは、この2つの未知の言語との格闘であった。ダランは影絵人形を動かすよりも先に、演目に必要なこの2言語を覚えなければならない。こちらに来たばかりの頃は、影絵のなんたるかを考えようとバリに来たのに、その前に未知の言語を覚えなければならないということに途方に暮れていたが、この2言語を理解しなければ先へは進めないのだ!と腹をくくって取り組むことにした。
インドネシア共和国は数多くの島々が集まって一つの国になっている。西のスマトラ島から、東のパプアまで、東西の距離はアメリカと同じくらい広い。インドネシア共和国内の島々は、もともとそれぞれの島に独立した文化を持っていて、それぞれの島の言語を使っていた。インドネシア共和国独立時に、それらを統合するためにマレー諸国で広く使われていた「ムラユ語」をもとにした新しい言語「インドネシア語」を作り、公用語とした。インドネシア語は、国内に住む別々の島民同士が会話するために使われる言語で、各島々の原住民どうしはその島固有の言語を話している。バリ人どうしはバリ語で話し、ジャワ人どうしであればジャワ語他ジャワ島の地域言語を話す、といった具合である。インドネシア語とバリ語は、文法こそ似ているがほぼ違う言語といってもよく、日本語における標準語と方言の関係性などとは比べられない。インドネシア共和国内の他の地方言語も然りで、言語だけ見てもかなり多様な人種と文化が共存しているのが伺える。
僕は大学の頃にインドネシア語を習っていたので、インドネシア国内での日常生活には困らないのだが、バリ島の現地語であり、バリ島のワヤンの必須言語の一つである「バリ語」となると全くわからない。そしてさらに厄介なのが、次に出てくるもう一つの言語「カウィ語」である。
ワヤンは、インド伝来のマハーバラタ、ラーマヤナという神話をベースに、数多くのキャラクターが登場する。そのほとんどは「カウィ語」を話す。「カウィ語って一体なんですか?」とナルタさんに質問してみると、「古代ジャワ語」だという。この言葉は、バリ人でもほとんど理解できる人がいない。では、カウィ語を理解できないバリの観客たちにどうやってストーリーを伝えるのか?そのためにバリ島のワヤンは特殊な演出を加える。ダランはカウィ語を使うキャラクターの言葉を、道化のキャラクターたちにバリ語に翻訳させて、物語を進めていくのである。観客は道化が語るバリ語を聞いて、初めて内容を理解する。なんでそんな面倒なことをしているんだ!ということは考えても仕方がない。それが伝統芸能というものである。
ここで、インドネシア語とバリ語とカウィ語の違いを例にあげてみる。学校で英語とか勉強するのが苦手だった人(僕もかなり苦手)には、みるだけで嫌になっちゃうような、教科書例文的な感じで申し訳ないのですが。
日本語 : 到着する
インドネシア語 : datang / tiba
バリ語 : rauh(上級語) /tekad(普通語)
カウィ語 : prapta
例文)
日本語 :すでに到着した
インドネシア語 :sudah tiba
バリ語 :sampun rauh (上級語)/ suba tukad (普通語)
カウィ語 :wus prapta
という感じ。どれもこれも全然違う。バリ人がワヤンを習う時は、バリ語に関しては勉強する必要がないので、新たにカウィ語だけ理解できるようになればいい。しかし、外国人の僕はバリ語とカウィ語という未知の言語を2つ同時に覚えて、約1時間の上演に必要なセリフに落とし込まなくてはならない。
とにかくこれはいくら時間があっても足りないと思い、今年の初めからワヤンの台本製作に取り掛かる。まず、ナルタさんから演目の「オリジナル台本」をもらって、それを清書するところから始める。本来ワヤンのセリフは即興の要素が強く、台本はあってないようなものなのだが、僕が外国人なので、ナルタさんはわざわざ普段は使わない台本を用意してくれた。しかし、この「オリジナル台本」が筆記体の走り書きで解読困難。この「オリジナル台本」の数行を四苦八苦しながらパソコンで清書。次の練習に持って行って、誤字脱字を修正する。同時にバリ語、カウィ語それぞれの意味と、台詞の内容をインドネシア語に訳してもらう。わからなかった言葉は、練習後にカウィ語、バリ語、インドネシア語のそれぞれの辞書で調べる。これの繰り返しで半年ほどかけて自分専用の台本を作った。先日、この連載を企画してくださった昌福寺のご住職がバリに来た時に、この作業の話をしていて「これは昔お坊さんが中国に渡って仏教経典を訳したりする作業とおんなじようなものかもしれませんね」みたいな話になった。
4月中頃、ようやく最後まで出来上がった「自分専用台本」で台詞の暗記を始めた。運転中や料理中、時間のある時にひたすら復唱する。バリ語、カウィ語両方とも未知の言語なので、実際のところ2言語使っているという感覚はまだなく、とにかくひたすらに暗記。カウィ語は、キャラクターによってメロディ(節)がついているので、それも合わせて覚える。ようやく覚えて、人形と合わせて動かせるようになってくると、ナルタさんがセリフを足してくるのでまた覚え直す。延々とそれを繰り返す。
下手くそなりに台詞も覚え、音楽に合わせて人形も動かせるようになって来て、バリの知り合いから「そしたら滞在中にワヤンのお試し上演してみたら?」と言われた。まさかそこまでいけるとは思ってもいなかったので、試しにナルタさんに相談してみると、真剣な顔になって1冊の本を出して来た。「もしワヤンを上演するなら、上演に必要な呪文を覚えなきゃね」と言って渡されたその本には、膨大な呪文が書かれていた。。。僕はこれから更にこの呪文を覚えることになる。
その10 デワルチ
5th Sep 2017
9月に巡ってきたある祭日、ワヤン(影絵人形芝居)を習っているスカワティ村では、ダラン(影絵師)の為のお祭りがあり、僕はそのお祭りの中でワヤンのお試し上演をさせてもらうことになった。
バリ島でワヤンを上演する場合、必ずダランになるための通過儀礼を行わなくてはならない。ダランの師匠・ナルタさんは「ダランが通過儀礼をしなかったり、上演に必要な呪文を知らなかったりすることは、目を瞑って道路の真ん中を歩くようなものだ」と言う。ワヤンを上演することは、目に見えない世界にアプローチすることであり、危険がいっぱいである。そういった危険から身を守るための通過儀礼なのである。
8月の満月の早朝、スカワティ村の高僧の家で通過儀礼を行う。バリ島の儀礼は謎の所作がたくさんある。 交差させた手の甲に中国銭を乗せて払いおとす、木で作ったブラシのようなもので爪を磨く、卵で手のひらに字を書く、赤と白の綿糸を耳にかけたり手首に巻いたりetc。通過儀礼に使われる聖水は、黄色 い実のココナッツジュース。一連の儀礼を経て、晴れて僕はバリ島のダランの仲間入りを果たした。
いざ本番を迎えるその日の朝「そもそも、どうして自分はバリ島のワヤンなんかやってるんだ?」という、今更ながら初歩的な疑問が浮かんできた。ワヤンを上演するということは、バリ人の中でさえものすごくハードルの高いものである。まして、外国人がそれを上演するということは、奇跡に近い。しかし、 その貴重さは日本の人にはピンとこないもので、僕の思い入れや努力は、そのままストレー トに本国には還元されない。そのようなややこしいものに、どうして自分がここまで踏み込むことになったのか?人知を超えたものの仕業を感じて、とても不思議な気持ちになった。
ナルタさんに師事して、今回上演することになった演目を【デワルチ】という。【デワルチ】は、インド伝来【マハーバラタ】を起源とする有名な物語である。
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【デワルチ】
パンダワ兄弟の次男・ビマは、師匠であるドゥルノの命令により、聖水を探しにいくことになった。ビマは洞窟で龍と戦い、ジャングルで怪物と戦うが聖水を見つけることができなかった。母や兄弟たちは宿敵・ドゥルヨダノがドゥルノに嘘をつかせ、ビマを殺そうとしていることを知り彼を止める。しかしビマは、母たちが止めるのも聞かず、あるはずもない聖水を探しに大海原へと向かい、溺れ死んでしまう。すると、天空から手のひらほどの小さな神様が降りてきて、ビマを生き返らせた。【デワルチ】と名乗るその神様は、ビマを丸呑みにした。ビマは【デワルチ】の胎内で七色の光に包まれ、世界の理を知る。【デワルチ】の導きによって聖水を手に入れたビマは、ドゥルノの元へ戻るが、ドゥルノはビマの持ち帰った聖水を本物だと信じない。すると再び【デワルチ】が現れ、ビマを騙した罪を償わせるためドゥルノを溺れ死にさせようとする。ビマは、自分を騙したとはいえ師匠を見捨てられない、とドゥルノの命を救うのであった。
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ナルタさんから繰り返し【デワルチ】について教わることによって、物語の内側に流れる無数の教え~まさに【デワルチ】がビマを呼び込んで見せた七色に輝く内的世界~を何重にも体験することになった。
現代社会の中で、私たちは自分にとってネガティブなものごとに、過剰にならざるを得ない。しかし、「ネガティブなものがポジティブなものに変換される可能性」や、そのような希望を持つことの大切さ、を1000年の昔から伝わるこの物語は教えてくれる。
2017年の9月2日は忘れられないに日なった。誤解を恐れずにいうと、スカワティ村という世界一の影絵師たちが住む村で、世界一の影絵師たちに見守られ、僕は未熟ながらも影絵師としての新しい人生を始めることになった。彼らからもらったたくさんの発見に、これからゆっくりと向き合っていこうと思う。
その11 僕の島と祖父の島~マルク諸島周遊記
2nd Oct 2017
インドネシア滞在中どうしても行っておきたかった場所、マルク諸島の旅に出た。
日本人には馴染みのないこの地域への旅を計画した目的は2つあった。 1つ目は、スラウェシ島最北の港町マナドに行って、僕の作品に登場する【架空の島・ワラケ島】を探すこと。 2つ目は、戦時中に母方の祖父が従軍していた島ハルマヘラ島に行くこと。さらに最近は格安飛行機でインドネシア内どこでも行けるようになったので、ハルマヘラ島の隣にあるテルナテ島にも足を延ばすことにした。
バリ島から飛行機で北東に3時間。スラウェシ島最北の街・マナドといえば世界屈指のダビングスポットである。 港で小型ボートをチャーターして、海から【架空の島・ワラケ島】を探しつつ、ダイビングポイントがあるブナケン島へ向かう。小さな島々がポツポツと連なって見える。時たま飛び魚が舟の前を横切っていく。ブナケン島のそばまで来るとサンゴ礁の浅瀬が続く。 海の透明度がものすごく高い。カラフルなサンゴが船の上からも良く見える。かと思えばサンゴ礁の途切れたドロップ・オフ(海の崖)から先はゾッとするほど青黒い。
ブナケン島に到着して、いくつかのスポットをシュノーケリングで泳いでみた。カラフルな魚、巨大なサンゴや亀たち、吸い込まれそうな海の崖。崖の先には無のように広がる深い青、怖いような、美しいような。これに似た感覚を最近味わった。しばらく考えて思い出したのは、カリマンタンで行ったジャングルだった。うっかりすると死んでしまいそうな圧倒的な自然。自分で設定しときながら「ワラケ島ってこんなところにあったんだなぁ」と感心した。
翌朝、小さなプロペラ機でハルマヘラ島へ行く。ハルマヘラ島は四国と同じくらいの大きさで、観光地・マナドに比べてのどかなところである。空港で車をチャーターして、島の西岸にある港町に向かう。海岸線をはしるきれいな舗装道路、整理された椰子畑。お昼ご飯にワタリガニの定食を食べたり、旧日本軍が置き忘れていった座礁船を見たりしてのんびり走る。
いつの間にか山道に入っていた。ぼんやりと外を眺めていると、同じ種類の樹が沿道に大量に植えられているのに気づく。運転手さんに「この木はなんですか?」と聞くと、答えは「クローブ」だった。実はこのハルマヘラ島とテルナテ島は、ヨーロッパが香辛料貿易のためにやってきた最初の場所【マラッカ】だったのである。まさかこんな辺境の島が、その昔ヨーロッパを沸騰させていたとは信じられなかった。そして、教科書でただ覚えるだけでリアリティのなかった歴史と、祖父の戦争体験とが交錯した現場に自分がいる、というのは想像以上に強烈な体験だった。
翌朝フェリーでテルナテ島に向かう。アウトリガーの小舟が、島々の間をひっきりなしに行き交っていて、まるで瀬戸内や日本の離島のような景色である。
外周48kmしかないテルナテ島は、13世紀に興った巨大海洋国家・テルナテ王国の首都であり、香辛料貿易の中心地であった。最盛期はスラウェシ東北部、マルク諸島、小スンダ列島、パプア西部までを治めていた。 今もマルク諸島をつなぐハブ空港として利用されていて、島は大変な賑わいである。どうしてこんな小さな島にそのような大きな王国があったのか、全くもって不思議である。
港から車で30分ほど山の方に上がっていくと、樹齢400年を超えるクローブの古木に出会える。王宮の一部は観光客に解放されていて、王宮内ではテルナテ王朝と関係のあった中国、 ポルトガル、スペイン、オランダの品々などが見られる。朝市に行くと、カツオやサバ、イカの一夜干しなど日本の市場で売っているようなものがたくさん並んでいる。マルク諸島でよく食べられるサンバル・ロアという調味料は、唐辛子とニンニクとカツオやじゃこを乾燥させてほぐして混ぜたもので、ラー油と鰹節の味で感動した。
これといった観光地でもないところで、こんなにもいろいろな体験ができるとは驚きだった。
その12 コモド島沖の船中にて
28th oct 2017
僕は今、コモド島沖の船の上、満天の星の下このレポートを書いている。バリ島から東へと連なるヌサトゥ ンガラ諸島にあるフローレス島の港町・ラブアンバジョ。ここから、かの有名な巨大オオトカゲ【コモド・ ドラゴン】が生息しているコモド島までは目と鼻の先だ。インドネシア滞在最後の旅と決めてフローレス島まで来たのだから、コモド・ドラゴンを拝まずして帰るわけにはいかない。そう思って参加したコモド島周遊 一泊二日のツアーは、沖縄在住でハブを研究しているロシア人、ハンガリー人カップル、イスラエル人カップル、ノルウェー在住のドイツ人、ヒスパニックのカリフォルニア人他多数と小船でツアーを共にすることになった。西洋人特有のイェーイって感じの空気に、日本人特有のシャイさをもつ僕(と言い切っていいのか、自分の問題か?)は全くついていけない。しかも、ツアーを予約しに行った時には知らされていなかったコモド島沖での船中泊。ツアーの興奮とビールの力で、さらに陽気になっている他の乗船客に完全に置いてけぼりを食ってしまい、冒頭で記したように星を見ながらひとり、レポートを書くことにした。
インドネシアの中で、今もっとも観光化の期待が高いと言われるフローレス島。「今のうちに行っておかないと、バリ島のような観光地になってしまうよ」と多くの友人から勧められた。東西に延びた島は、どこまでも峻険な山が続く。南の島特有の熱帯ジャングルを想像していると大違い。乾燥して埃っぽく、山間では長袖を着ていないと寒い。どことなく日本に似た雰囲気をもっている。のべ15時間乗車した内陸のバス移動はそのほとんどが峠越えで、ガードレールもない崖道を猛スピードの車が行き交う。南の島にちょっと遊びに来た、という気分でくると返り討ちにあう。
バリ島から東の島々では伝統的に【イカット(絣)】が有名で、このフローレス島でも点在する部族がそれぞれ独自のモチーフを持っている。ジャカルタの新聞社で働く友人から聞いた話によると、フローレス島中部の村には、いまでも天然染料と手紡ぎ綿でイカットを作っているおばちゃんがいるという。今回の旅はその人に会いに行くのが主な目的だった。
フローレス中部のエンデ空港から車で2時間かけて、イカットおばちゃんの住むケリムトゥ山麓の村に行く。 村までの道すがら棚田が幾重にも連なっている。大きな岩がゴロゴロと転がる峠道は、今でも落石事故が多い。道路の舗装工事が盛んに行われていて、なるほど観光化が進んでいるというのはこういうかと思う。
村人に聞いて訪ねたトタン屋根の粗末な家から、140cmくらいの小柄なおばちゃんが出てくる。彼女がイカットおばちゃんである。まるっとしていてチリチリの癖っ毛は、バリによくいるマレー系民族とは明らかに違う、パプアやオーストラリアあたりに雰囲気だ。
ジャカルタの友人を介して事前に連絡していたので、気さくにイカットについて教えてくれる。 まず驚いたのは、現在フローレス島で、天然染料と手紡ぎ綿を使ってイカットを織っている人はこのおばちゃんただ一人とのこと。部族ごとのモチーフは今でも継承されているが、染料や糸は工場で作られたものがほとんどだそうだ。機織り自体も、機械を使わず地べたに座り、柱に引っ掛けた縄を腰の後ろに回してテンションをかけ、縦糸と横糸を織っていく古典的な方法だ。染料は藍、ウコン、木の根、土など庭で採れるものを使う。後日フローレス島内の別の村のおじいちゃん(自称80歳)に聞いたところ、綿花に関しては、戦中に日本軍が大量栽培を始めたそうで、「あんたら日本人のおかげで、わしらはイカットが作れるんじゃわ~」とのこと。悲しい記憶の多い戦争の話の中で、そのようなことを聞けて少しホッしたりもする。
「Iさん(ジャカルタの友人)に言われたからね、あんたにはうちにある最高の布を見せてあげる」イカットおばちゃんはそういって、この家に代々伝わる布たちを次から次へと出してきた。ざっと見積もっても50枚以上は見せてもらった。最も古いものは彼女のおばあちゃんが作ったもので、約100年前に製作されたそうだ。天然染料でここまで鮮やかな色が出るのか!人の手によって紡がれた糸はこんなにも柔らかいものか!驚きの連続だった。イカット製作は長いもので2年かかるという。その製作過程の過酷さは容易に想像できた。これはすでにファッションという括りにはおさまらない、彼女たちのウレシイやカナシイやツライやイヤダイヤダの全てが染め込まれ、織り込まれた、人の生きた証そのものだった。
それらを見ていたら、なぜだかとても悲しくなった。いや、嬉しかったのか。そのどちらとも判別できない感情が湧いてきて、ただ泣きたくなった。これは本当にここにしかないものだ。このイカットたちは、ここ にしかない!と叫びたい、ものすごいリアリティだった。そうなんだ、僕はこの1年は、このリアリティを探して、土地に生まれる芸術=芸能の必然性と必要性を考えたくてインドネシアに来たのだった。イカットおばちゃんとその先祖たちが作った布は、とてつもない存在感を放って、過去から現在を貫いていた。ただひとつのことに真摯に向き合って作られたものと、そのために積み上げられた時間の跡を、僕は今一番渇望 していたのだった。
そして改めて、ワヤン(古典影絵)を学びにきたことを考えた。
幸運にも身に余る賞をいただき、ずっと挑戦したかったバリ島の【ワヤン・クリット(影絵人形芝居)】を学ぶ機会を得た。難解な言語習得、 物語を語ること、唄うこと、人形を使い音楽を指揮し、登場人物たちを自ら作る、そういったワヤンの具体的な技術習得を通じて、影絵とはなんなのか、芸能とは一体なんなのかを考えたかった。
師匠のナルタさんは、小柄でものしずかなおじいちゃんだ。しかし、ワヤンを語る時の彼は村に生えるガジュ マルの大樹のように大きく見えた。島のあらゆる命と寄り添いながら生きてきた彼は、まさにこの島の賢者である。彼の知識は、大樹が他の木々と絡み合いながら根をはるように、ありとあらゆる島の物語とつながっている。何も知らない僕は、その大樹が広げる大きな枝葉の木陰で、熱帯の陽炎を眺めるように、深遠なるワヤンの世界の一端を見ていた。
ある時、ナルタさんにワヤンとはどういう意味ですか?と聞いてみたことがあった。それまで、あまりにも当然すぎて考えもしていなかった問いだった。師の答えは「ワヤンは現実と非現実の【間】だよ」だった。影絵でも人形でもなく【間】という答えに驚いた。それを聞いて一つの仮説が浮かんできた。ワヤンとは、人形(現実)と影(非現実)の【間】で、知覚し得ないものと交信する装置なのではないか?光がある瞬間から影はある。ということは僕たち生命が誕生するはるか昔、宇宙ができたその時から影はあるのだ。だとすると影を扱うということは、僕たち生命の認識を超えた何かにアプローチすることなのではないか?
ナルタさんはまた「影絵を見ているのは、人間だけではない。この土地の神様やわしらのご先祖様も見に来ている。だから失礼があってはいけない」という。現実と非現実の【間】は、目に見える僕たちと目に見えない土地の神や先祖をつなぐ役割を果たす。僕たちは自分たちの土地や先祖を想うとき、普段は眠っている自分たちの過去と対峙することになる。僕たちの過去は、今を生きる僕たちに問いかける。
「お前は精いっぱい生きているかい?」
イカットおばちゃんの布たちと、ナルタさんの語るワヤン・クリットと、この南の島々に息づく多くの芸能は、僕に自分のあるべき姿をそっと教えてくれる。
僕は10代の終わりからインドンネシアに関わり、20年 近く経つ。僕は、日本と南の島々との文化の【間】で、ふらふらとバランスをとりながら今まで生きてきた。片方の文化から見れば、もう一方の文化は想像の世界=非現実とも言える。言い換えれば、僕は現実(日本)と非現実(南の島々)の【間】にずっと身を置いていた。僕がワヤン・クリットに惹かれていったのは、そのような【間】 を感じていたからなのかもしれない。
この1年でわかったことよりもわからないこと、知りたいことが何倍にも増えた。一つの謎が解けると、また新しい謎が待っている。多くの疑問を持つということは、それだけ新しく何かを作れるということだ。こんなに幸せなことはない。それがわかっただけでも、実り多き1年だった。 他の乗船客はみな寝てしまった。明日は海から上がる朝日を見に行くらしい。僕もそろそろ眠ろうと思う。 おやすみなさい。
あとがき
1年という、長いようで短いインドネシア滞在をまもなく終えて帰国します。30代で、これといった制約もなく海外で勉強していい、という夢のような出来事がまさか自分に訪れるとは思ってもみませんでした。 これは大いなる思し召し!と、今後も大切にしたいと思っています。帰国後も、いろんな場所で発表を続けさせていただければと思っています。謎の影絵をやっている奴がいるらしいぞ?という噂など聞きましたら、それは僕の可能性が高いので、是非ともお越しいただければ幸いです。その際は大きなクエスチョンマークをお返しできればと思います。
インドネシア滞在の連載を依頼をしてくださり、バリ島にも会いに来てくれた昌福寺の岩間さんご夫妻、大変お世話になりました。今回のエッセイは自分にとって大切なものになりました。そして、まるで日本と接点のないマニアックな内容と拙い文章におつきあいしてくださった読者のみなさま、ありがとうございました。最後に僕のわがままな人生に付き合ってくれている妻と、かけがえのない娘にも最高の感謝を。
2017年 10/28 川村亘平斎